プロフィール

小松島市議会議員2期目。商工会議所副会頭。地域プロデューサー。#マニフェスト大賞 2021 2023エリア選抜受賞 #四国若手議員の会 #未来をつくる政治塾 #日本政策学校 #議会改革 特別委員会 委員長3年目(議会改革ランキング2022 77位)

「南部とおる」って、どんな人?

1979 年(昭和 54 年)小松島市 銭湯稲荷湯の長男として生まれる。 

千代小学校、徳島文理中学高校、 徳島大学、徳島美容学校を卒業。

12歳、母がくも膜下出血で倒れ、 植物状態に。(亡くなるまで の約15年間、家族で介護) 

25歳、父親にドナーとして京都大 にて生体肝移植を行う。 

30歳、ナチュラルアイを起業。 (化粧品製造、コンサル) 

39歳、市議会議員初当選  、、、まだまだ続く

 ●0歳 :1979年12月19日 小松島市で銭湯稲荷湯の長男として生誕。

小松島市立千代小学校:小学4年から通っていた、今は亡き「定本塾」の恩師に勉強することの楽しさを教えていただいた。その後、大学受験や医学部受験など、突然行うことになったときに勉強のやり方、基礎はこの当時、身につけさせていただいた。このころ中学受験をしていなければ、今の私はいないと確信している。ちなみに部活は体操部、中学に入ってボクシングジムにも通う。母との思い出は小学生まで、議員になり母の話を聞くことが増えた「PTA活動を頑張ってたよ」「毎朝、私が学校に向かう後姿が見えなくなるまで見送っていたよ」「着付け教えてもらっていた」「美容師でいつも髪切ってもらったよ(後に私が美容師免許を取得することになったキッカケは母かもしれない。)」、、、私が覚えていない母の姿に今となって触れることができるのは嬉しいのと同時に、母が地域のために家族のために精一杯生きていたのだと感じている。


私立徳島文理中学高等学校:母が初めて倒れた12歳夏休み、父も入院。ICUなどに付き添いをするために、まだ移転前の徳島赤十字病院には地下に待合室があった。異例の未成年の付き添いを了承してもらい、他の大人たちに交じって付き添いを行う。周りの大人からは優しい言葉をいただいたと思うが殻に閉じこもり、音楽プレーヤーで「どんなときも(槇原敬之)」「BLOWIN'(B’z)」をリピートで永遠に聞いていたことを覚えている。

~どんなときも、僕が僕らしくあるために。迷い探し続ける日々が答えになること 僕は知ってるから~  

~風を受けて立ち上がろうとする、君は美しい。かたちのない答えを探して、終わらない旅をする~

この当時聞いていた歌詞が、自分の人生を表している気がする。


国立大学徳島大学卒業:「自分のために生きる」ことを決め自分探しの活動を始める。医学部受験失敗、自分を表現する活動、学業より仕事、就職より経験、、、、24歳で徳島に帰ってくるまで好き勝手に生きた日々でした。大学時代のNHKで働いた経験は、自分を表現することの大切さ、仲間と一つのものを作り上げることの楽しさを教えてもらった。連載しながら海外を放浪した経験は、世界のどこにいても生きていける自信と人種関係なく同世代との熱き交流は「活きる」ことに全力を傾ける素晴らしさを知った。


●12歳:母がくも膜下出血で倒れ、植物状態に 。

 身体の弱い父に支えられ、学校、介護、家業の手伝いの日々。母が亡くなるまでの15年間、父子家庭状態で母の介護、家業の風呂屋の手伝いをする中、勉強する気持ちが無くなり、中高一貫進学校で劣等生として邁進。今でいう「ヤングケアラー」ではあるが、現実と向き合うのが辛かった。人は「誰かのために生きる人」「自らのために生きる人」の大きく2つに分かれるという考えに至る。以降この考えのため極端な人生の選択を繰り返し、人生を迷走することになる。しかし迷走して歩んだ道での経験が先の人生で活かされることになる。

●18歳:地元徳島大学に進学。 

 高校3年、進学しないと言い出したバカ息子のために親族会議が行われ、地元大学だけは受けることが決まる。夏休み初めて英単語帳などを買い、残り4か月の受験勉強が始まる。合格し徳島大学に進学。大学一年、母が体調崩し長期入院。その際付き添いの日々で、母が最後に話した「勉強だけは頑張りなさい」という言葉を思い出し、大学1年時、医学部受験を行う。その夢は木っ端みじんに壊れたが、同時に進めていた自らを表現したいと「とーる」という名で活動していたメディアでの活動がうまく行き始め、のめり込む。四国放送伝説のラジオ「クジラジオ」初回出演(その後、クジラジオのアシスタントも務める。)やNHK徳島番組「てれごじ。」キャスターとして3年+α。ちなみに一応、しっかり?なんとか?ギリギリ?両立を行い、4年で徳島大学は卒業している。

●22歳:大学卒業後、就職せず、雑誌連載しながら海外放浪の旅。

 就職先はある程度決まってはいたが、、このままでは親が引いたレールを歩むことになることの不安が大きくなり、雑誌の連載という仕事!?を得ることで、自由な海外放浪の旅を計画。(のちに親のレールでも某企業に就職していたほうが良かったと何度、後悔したものか)沢木耕太郎「深夜特急」にあこがれ、徳島からインドまで陸続きのインスパイアされた旅。しかし最終的にはタイでスクーバダイビングのプロライセンスを取るところで終わる(PADIのDMダイブマスターになったが、プロ登録は行わなかった。)

●24歳:身体の弱い父のために、徳島に帰郷。

 地元ケーブルテレビで従事、その後、徳島大学医歯薬系ベンチャー企業で従事。会社を興す30歳までに、会社設立、事業開発、企業誘致、NEDOを含む産官学を巻き込む様々な補助事業のプロジェクト遂行など経験を積む。

●25歳:余命宣告を受けた父親に、ドナーとして京都大学で生体肝移植を行い成功。

 父は中田町のグラウンドから医療ヘリで、私は高速バスで京都へ。日赤病院で当時担当してくれた医師や看護婦さんらと後日話したが、父は助からなく最後の見送りと覚悟したと話されたほど、父の状態は良くなかった。また私としてはドナーとしても数パーセント死亡リスクがあることの説明を受け、手術日前日に鴨川を泣きながら死ぬかもしれない恐怖と向き合ったことを覚えている。余命宣告を受けた父は移植が成功し18年、80歳で亡くなるまで風呂屋の店主を務めあげる。


私として死と向き合った、一度目の人生のターニングポイント。

「徳島に永住することを決意、もう一つの家族コマツシマを元気にする活動を始める」

●27歳:母死去 。

 15年、母を看病し続けた父を尊敬。そして結婚、母が亡くなる前に妻を紹介することができました。

●30歳:ナチュラルアイ起業

 化粧品製造販売業、コンサルタント業、小規模バイオマス発電所誘致etc)

●39歳:専修学校 徳島県美容学校卒業美容師免許取得

 36歳の時に徳島県美容学校に入学。十代の仲間とともに共に勉学実習を積み、3年後(通信課程のため3年)美容師試験に合格し美容師へ。国試前、凍った階段から落ち指を骨折。痛み止めを飲みながら実習試験に挑む(後の市議会議員選挙で直前に両手首骨折したように、大きな勝負前には何かある星の下で生まれたのかもしれません)。しかし、自分の中ではタイムもワインディングも過去最高の出来で、国試をクリア、学校では「指を骨折しても合格した人がいる」と話題に。以降、合格を諦めない事例の代名詞として使われているとか、そうでないとか。国立大学で化学を学び「化粧品製造の免許」を持った、美容のプロ資格「美容師」の誕生。のちに政治家にもなり、「国立大学出身で、美容師の政治家」は、、全国でも私だけ???

●39歳:小松島市議会議員初当選 、 選挙前に2階から転落、両手首骨折。

  日本初?の両手首骨折しギブスをはめながら選挙活動を行った市議会議員選挙直前、事務所2階でベランダに旗を立てるために作業中、強風にあおられ転落。たまたま休日で事務所に来ていた次男に、頭から血を出し倒れているところを発見され、救急車で運ばれる。助けてはいただいたが「こんな状況では選挙には出られない,選挙を諦めます」支援者の皆様に頭を下げたが、世話人代表が「お前は選挙当日まで寝て回復させなさい。選挙が始まって車に乗れるのであれば全部やっておくから、申し訳ないと思うなら選挙に出なさい」という熱いメッセージをいただき、出馬を再度決意。991票という市民の皆様から大きな後押しをいただき、当選


あの時世話人代表から、かけていただいた言葉を一生忘れることはありません。

「恩義は結果でしか返せない」小松島のために邁進することを誓いました。


●議員1年目(40歳):令和元年5月1日より小松島市議会議員に。

①会派 至誠コマツシマとして活動を始める。②産業建設常任委員会 副委員長、議会改革特別委員会 副委員長。③Kocoloにて横浜市長で衆議院議員でした中田宏氏の講演会を実現。④江田町協議会、江田町自主防災会の顧問に(勝浦川土手決壊の危険の解決に挑み始める。勝浦川の土手が決壊した場合、市街地全てが浸水するため小松島市の課題として議会でも取り上げる)。鳳栄町町内会の顧問に。⑤9月議会。議員になり4ヶ月で、委員長代理として産業建設常任委員会を進行することに。

●議員2年目(41歳):議員2年目で、小松島市監査委員(令和2年行政監査報告)に。

①議会広報特別委員会 委員長(議会だよりにQRコード、表紙一面写真を導入。担当号(125号令和2年8月5日発行126号令和2年11月5日発行127号 令和3年2月5日発行128号令和3年5月5日発行 )。 ②議会だより編集手引きを完成。③会社を整理し、新たな活動を検討中。④Facebook 毎日投稿を始める。(2020年7月から始めるが、現在では父の死などで何度か休みをいただいた。ほぼ毎日更新中。)

●議員3年目(42歳):国内最大級政策コンテストマニフェスト大賞 個人にてエリア選抜(応募総数2730件中165件)に選ばれる。

①会派至誠コマツシマ会長に。②議会運営委員会 委員(1年目)、予算決算常任委員会 副委員長。議会改革特別委員会 委員長(1年目) ③オンライン委員会開催のための小松島市委員会条例の一部改正小松島市議会会議規則の一部改正、小松島市議会オンラインを活用した委員会開催要綱を制定。④9月決算議会に行う「事務事業評価」の 事務事業評価シートの改変。⑤小松島市初のオンラインタウンミーティングを実施、タウンミーティングの内容を取りまとめ市へ提言。 ⑥南部とおるHPが完成。⑦小松島公民館運営委員会 顧問に(地域の課題「3年延期された新公民館を建設できるように」地域の皆様と一緒に活動をはじめ半年で予算付けへ)

●議員4年目(43歳):10月13日父死去。11月1日より小松島商工会議所の副会頭に選任される。

①議会運営委員会 委員(2年目)、議会改革特別委員会 委員長(2年目)②議会ICTの導入、スクリーン設置で9月議会より一般質問でプロジェクターが活用できるようになる。③新人職員の1年目、2年目を対象に議会との交換会を開催2022.08.24。④昨年のタウンミーティングで総務常任委員会で引き継がれた「防災教育について」が令和4年度の年間テーマになり、8月5日(金)JCの先輩でもあり防災教育の徳島のトップランナーの前田秀和さんの講演会を実現。⑤小松島市の中学高校が参加した学生議会を実現。「議会改革のあゆみ」議会ホームページ作成。委員会提出議案第1号 学校給食費の無償化に関する意見書を国へ提出。⑧南部透Youtubeページを完成。⑨未来を作る政治塾一期生 ⑩徳島県ボクシング連盟 副会長に 


議会改革特別委員会委員長を2年勤め、その成果として

議会改革度ランキング2022 において

小松島市議会を、全国1,416地方議会の調査の中、77位に‼️押し上げる


父が亡くなり生体肝移植で父に提供した自らの肝臓、胆のうもあの世に旅立った。私にとって死と向き合った、人生2度目のターニングポイント。南部とおるは、next stageへ


●議員5年目(44歳):小松島市議会議員2期目にマニフェスト大賞エリア選抜 2度目の受賞(応募総数 3,088件中113件)2度の受賞は県下初! (2023年の振り返り)

①予算決算常任委員会 委員長、議会改革特別委員会 委員長(3年目)、議会運営委員会 委員(3年目) ②至誠コマツシマ会長、間議員が加わり、会派は3人体制に。議会授乳室の設置を実現。徳島県海岸漂着物対策協議会 会長代理に。 知事に意見書を提出 ⑤マニフェスト大賞 エリア選抜受賞 小松島市議会 議会事務局「インクルージョン議会だからこそ実現できた 赤ちゃん連れ新人議員のために、選挙後1か月で『授乳室』の設置」ローカル・マニフェスト推進連盟の四国勉強会に講師として登壇 ⑦ハラスメント研修の実施 ⑧議会改革にて、墨田区・早稲田大学に視察 ⑨小松島市で初となる音楽花火「クリスマス夢花火」を商工会議所として実現1恋人がサンタクロース2クリスマスイブ⑩2024年1月 辻立ち議員連盟を四国の地方議員の仲間と発足(初代会長)



to be continue...